JG 「実意丁寧とは、我情我欲のない生活。弟、大作氏戦死により本当の信心へ の転換。」
昭和五十四年七月三十一日 朝の御理解
御理解 第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、 三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と 言われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心し て身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打 たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐 ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど 大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断を すな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
金光教の信心は、教祖生神金光大神様が実意丁寧神信心の御生活から、天地の親神様のお指図を受けられ、又は、お知らせを受けられて、しかもそれを、実意丁寧に受けぬいておいでられた。いうなら、教祖の神様の生活の現場において現れてくるおかげ。それを人間幸の条件、そういうものが足ろうてくるという、もうまことに、人間が助かる事の為の宗教。それには、人間が実意丁寧でなければならない。その実意丁寧の心をもって神様に向こうていかねばならない。
そして神様のお心がだんだん分かるようになり、その神様のお心にそい奉る生き方が、今合楽でいわれる、有り難うして、楽しゅうして、愉快にまでなれるという信心生活をなさった方であります。
だから、考えてみると、その実にすんなりとした生き方、しかも、人間が本当に幸になっていけれる道というか、しかも、人間だけではない、神様も一緒に喜んで下さり神様も一緒に助かって下さるという、そういう神様が天地金乃神様、その天地金乃神様が、教祖金光大神の上に現れなさった神様は、そういう神様だったという事なんです。昨夜、夜の御祈念が終わって下りましたら、ある先生が、先生今日はマホメットの映画から九時からあるようになっとりますというのです。そりゃ一つ見せてもらおうかというて、ここを下がらせて頂いてまいりましたら、丁度はじまったばかりの所でしたから、ずいぶん長い映画でしたけれども見せて頂きました。
まあ、大作物というのでしょうね。それは大方の事は知っておりましたけれども、そういう、あのう事実宗教的なそういう映画ですから、もう事実に基づいてやはり、事実の説明を入れながらの映画でしたが。もう本当に何というでしょうかね、悲惨というでしょうか、血で血を洗うような争いからはじまったのですね。いわゆる、それには必ず殉教、いわゆる教えに殉ずるといったような、場面が沢山出てまいります。 あれは、イスラエル教ですかね、マホメットの繰り返し繰り返し、今でもそうですそうですけれども、いうならば、争いの宗教というてもよいような感じがします。まあ、それを見せて頂きながら、まあ本当にようも金光教の信心を頂いておってよかったと思うんです。
しかも、それが助かるという事の上において金光教の教祖の説かれたのは、助かるという事の上において十全だという事。そんな血生臭いような争いというのではない それこそ「打ち向かう者には負けて時節に任せ」というような信心。そして任せたら任せきりになるかというと、任せておればもうそこには、何ともいいようのない程しの素晴らしい働きが起こって来て、相手も助かり、自分も助かるという生き方が、いうならば、合楽の信心が、まあ世に問われる程しにだんだんなってくる過程を思うてみてもそうです。
どんなに馬鹿にされても、信心辛抱させて頂いておる。どんな場合であっても、それにこうだと打ち向かわずに時節を待って、そしてだんだん、だんだん、おかげを頂いてきておるというのが、今の合楽の状態なんです。
これからもいろいろありましょう。いろいろな関門もありましょうけれども、ね、 昨日研修の時に、お話申しましたように、日田の綾部さんが、二、三日前にお夢の中にお知らせ頂いとられる。歌舞伎十八番に勧進帳というお芝居がありますよね。
弁慶が義経主従と一緒に東北の方に落ちのびて行くという、あの安宅の関の場面です。あれは勧進帳などという物はもっておるわけはないけれども、勧進帳でもない物を勧進帳として読み上げて、そしてあのう、通れない所をいうならば、武士の情けで通してもらうという、まあ筋のものですけれども、綾部さんが頂かれたのは、その、勧進帳にね、その合楽理念を読んでいるという。という場面であったというのです。 どういう事でしょうかね。直ぐ分かるでしょう。合楽理念をもってするならば、通れない所でも通れるという事だと思うですよ。普通は通っちゃならん所でもです、いうなら、合楽理念をもってすると通る事が出来るという程しのいうならば、ものだという事なんです。
そこには、教祖がいわれる実意丁寧、神信心、その実意丁寧、神信心の内容というものはどういう事にならなければ、実意丁寧、神信心が出来んかというと、神様の御守護を受けておる。どんな場合であっても、神様のお働きの中にあるんだとその実感があるからでけるのです。どんなに馬鹿にされても、むしろ相手を祈る心が生まれてくるです。ね、打ち向かう者には負けて時節に任せられる。
神様の妙なるまでのお働き、御守護の中に生かされておるという実感がこれに湧いてくるんです。そこで、なら、実意丁寧、神信心とは我情我欲のない生活という事になるのではないでしょうか。欲がない生活というのではないですよ、我情であり我欲である。我情我欲のない生活というものがそこにあるわけです。
教祖の神様の実意丁寧、神信心とはその我情我欲のない生き方をなさったお方なんです。そして、打ち向かう者には負けて時節に任せて、その時節の働きのすさまじいまでの働きを実感しての日々でおありになったという事なんです。
私は、そういうものがね一貫して頂けなかったら、そんなに馬鹿にばっかりなっちゃおれんと思うです。やっぱ、時にゃ赤面弁慶になって言い訳したいという事になってくると思うんです。けれども、そういう働きを信んずる由にです、黙って治める事もでければ、その働きにそれこそ自然に身を任せるような生き方ができられたのです しかも、任せるその向こうには、こういう神愛があったのかと思われる程しに。 私共の昨夜、私共、男兄弟は二人ですが、その兄弟が丁度七年間招集されて行っておりました。そして、昨日七月三十日がその大作といいよりましたが、大作の帰幽日でした。式年とういのではごさいません。帰幽日というので毎年帰幽日には、帰幽祭をさしてもらうのですけれども、昨日は丁度、脇山先生が当番でしたから脇山先生が奉仕して下さいました。本当に一家一門が皆集まって玉串を奉らせてもろうて、弟の遺徳を偲ばせてもらったわけなんですけれども。
本当に考えてみれば、考えてみる程に、終戦の年の七月三十日に亡くなっておるんですからね。もう十五日生き延ばしのおかげを頂いておったら、もう無事に凱旋というか引き揚げが出来ておったんです。
神様、何とか十五日、七年間もそれこそ武運長久を祈り続けておったその弟の、戦死の公報がです、私共が引き揚げて帰って一年後にまいりましたわけですけれども、それがよくよく調べてみると七月三十日、終戦の月の七月三十日です。
本当に神も仏もあるもんかという感じでしたけれども、そこに深い神様の御神意、御神愛があったとしてですね、信心を止める事もなしに、続けぬかせて頂いている中にです、皆さんがいつも聞いて下さる私と弟の、いうならば事をね、むしろ、その事をもって大坪一家の信心が非常に進展していって本当な事、本当な信心へ進んで行ったという事実なんです。
三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれる、とここに御教にありますけれども、三宝様とは仏教的にいう、仏、法、僧と一番大切なものとしてそれをいわれるわけですけれども、ここでは穀物の意と説明がしてある。いわゆる一番大切なものと。
いうならば、私共の肉眼ではこんな悲しい事、こんな馬鹿らしい事、こんな難儀な事があろうかと思うような事でも、よくよく心の目をもってすると神愛のあらわれであった。合楽の今日のおかげを頂いておるのは、この霊がこの根本をなしておるというてもよいくらいなおかげです。なる程肉親を亡くすという事は悲しい事ですけれども、その悲しい事とか、それを悲しい事だけにしたのでは,それを踏んずけてしまうような結果になるけれども、それを大事に頂いていく中にです、なる程あの時には悲しい事だったけれども、一家中が目の前が真っ暗になるような事だったけれども、そのおかげで今日の合楽に沢山の人が助かってくる。これからも、いよいよ合楽の信心が世に問われ広がってゆく事であろう。そういう元を作ってくれた霊として、その霊を丁重に頂かせて頂くという事ですから、霊も生きてくる事であろう、霊も喜ぶ事であろうという事になるわけですよね。
そういう悲しい事であっても、それを受けて頂いていくという姿勢を教祖様は、実意丁寧、神信心と御自身がそれを実証しておいでられたわけ。ある時には、やはり、お上からも願んではならんというような事もあったんです。だから、神前撤去、お神様を全部取り払うてしもうたという時代もあった。それが、だんだんもう、内々で拝んでもよいというように、その、上からいわれたんですけれども、そう内緒では拝まんと教祖はおっしゃっておられる。本当にお許しを頂かねば拝まん。それこそ、時節を大事にされた。そして、許されて又、いわゆる教祖の神様がお取り次ぎなさる事が出来るようになったというように、いわゆるイスラエルとマホメットの争いというのはいつも、そういう時に闘ってでも、そこん所を開いていこうとする生き方をする所に、血生臭い、いうならば、あのう戦いという事になっておるのです。
だからキリスト教の歴史というのは、戦いの歴史というても過言じぁないです。丁度、キリストが亡くなられて六百年の後に、あのマホメット教は生まれたのだそうですね。三百何十という程しのいうならば、雑神というかいろんな神様、仏様を拝んだ時代、それに神様は、もう一体しかないというような事をいいだしたという所から、その争いがはじまっておるんです。 これはキリスト教だけではありません。いろいろな宗教を見てみると、多かれ、少なかれそういう一つの受難時代というのは、非常の争いの時代であります。
金光大神の信心には、例えばそういう事が起ころうかと思われるような時でも、それこそ時節を待っておかげを受けておられる。しかもその、時節というのがどんなに素晴らしいかという事を実証しておられるんです。
それを、いよいよ実証しておるのが合楽の信心だというふうに私は思います。だから、お道の信心はどこまでも実意丁寧、神信心を基にする。それでいうなら、人間の我情我欲というものが信心によってだんだん取り除かれていって、ね、おかげを蒙むっていく。
これも綾部さんが、勧進帳のお夢を頂かれたちょっと一日、二日前に、お届けがあったんですけれども、二日間も続いて自分の葬式を出しておるお夢を頂かれたとこういう。だから、いうならば、縁起でもないお夢だというふうに感じるのですけれどもそうではなくて、御理解である。いよいよ自分というものを空しゅうした生き方。
いうならば、どういう事になるかというと、欲をいうのじぁない我情をいうな我欲をいうなという生活に入ってゆく。自分というものを空しゅうする。
自分というものを一ぺん、自分というものをお葬式をしてあの世に送ったような気持ちで、これからの生活、大分支部長としての御用をさせて頂く為には、我情があっては我欲があっては人が助からん。人はついてこない。
自分を空しゅうする生き方を、いよいよ身につけていけよという事である。そういう我情我欲のない生き方をもって、合楽理念をマスタ-し、合楽理念の実験者となりそれを実証者としておかげを頂いていく為にはね、やはりね、そういう我情我欲を取り除いていくような修行をさせて頂きながらの合楽理念でなければ、勿論、合楽理念がいつの間にか、その我情我欲が取れていくように説いてありますよね。
合楽理念を行じていきよると、いつの間にか有り難くなってくる、いつの間にか、いうなら、自分の我情我欲が取れてきて、有り難い、有り難いのいうなら、一念だけしか残らないというような生き方が説いてあるのです。
そこには、争いもなければ第一いうなら、難儀という事がなくなってくるわけ。難儀の実態というものが分かってくると、むしろお礼をいわねばならん程しの事である事がだんだん経験、体験をもっていくに従ってそれがはっきりしてくる。
問題は、だから大切なものを三宝様踏むな。私共の前には、私共が幸になる条件というものが足ろうてくるその前に、幸になる条件の大基というものが自然の中にあるわけですけれども、それが痛い事であったり、腹の立つような事であるかも分かりませんけれども、それが三宝様だ。ここを大事にしていかねばならない、ここを信心辛抱していかねばならんとしてそれを説いていくのが私は、お道の信心だと思います。 皆さん、合楽に御神縁を頂いたという事を本当に有り難く分からして頂く為にはね合楽理念のいよいよ実験、実証者にならねば、合楽でいわれるこんなにも尊い有り難いとう事が分からない。 そしてここで腹を立てねば、馬鹿にされるといったようなものがなくなってくるわけ。いよいよもって、馬鹿と阿呆で道を開かして頂けれる尊い生き方が出来るようになるのです。
昨日、そのマホメットの映画を見終わって神様にお礼申させて頂いておりましたらね、「人」という字を頂いたんですけれども、人という字のノがえらい大きんです。 そしてノをささえておるヽがもう小さいふうに頂いたんです人、ね。
いつ、この支えておるのが折れるじあろかといったような感じです。人という字は拝み合うというか支え合うというか、助け合うという意味をいうんだそうです。
金光様の御信心はね、ここん所がですね、いうならば、神様と私共のあいよかけよの道というのは、ね、神様がお礼をいうて下さる程しの生き方を私共は頂いていくんです。神様とお礼がいいあえる。これには大変いろいろ意味があると思うんです。
けれども、事お話をしておるとあらゆる宗教の、まあ十全ではないという事をいわなきゃならなくなりますからね。皆さんが想像して下さればいいと思うんですけれどもね。合楽でいわれる十全の教というのはね、足ろうておるという事です。同じ支え合うておるというても一様の力をもって支えおうておるという事なんです。
今でもエジプトですかね、あちらあたりマホメット教が盛んな所の街なのではね、一日に何回かという祈りの時間というのがあるそうです。全市が何もかもパッとストップしてしまい通っておるタクシ-でも止まって、御祈念をするそうですね。
それは見事だそうです。今でも。そういう宗教そのものが政治の中心をなしておるという事ですから。そういう説明も後で加えて話しておりましたがね。素晴らしい事だと思うんですけれども、けれども人間の助かりという事に対して、只、そういう習慣が残っておるという事だけであってね、やはり争いは今でも続けられておるという事です。人間のいわゆる幸の為に私は、お道の信心はいよいよ広がっていかねばならないと思う。
それは、さまざまな事がありましょうけれども、その時点、時点をです、有り難く尊いものとして、いわゆるそれを神様の働きとして、神様が私に求めて下さる修行として頂いていくだけじぁなくて、頂いていきよれば必ず素晴らしい働きが、そこには起こってくるという事を確信しての信心生活。
三宝様を踏まんですむ生活。問題は、只、私共がいうなら、その綾部さんの二回のお夢のようにです、いよいよ合楽理念のマスタ-。もうそれこそ可能でない事はない もし、可能でないならば、これはおかしい、自分の我情我欲がそれをそうしておるのであろうかというふうに気付いて、自分の我情我欲を取ってゆく、自分を空しゅうしてゆく、信心と相俟っておかげを頂いていく限りね、いよいよ人間の幸だけではない、あの世までもそれが続いていけれるような信心、又は生活が出来るという事になります。そして私は思いますのは、足ろうたおかげ、今にも倒れはせんだろうか、今にもつぶれはせんだろうかという不安のない生活、それには足ろうた生き方、全てが足ろう。例えば、合楽教会でおかげを頂いておるいろんな事を一ぺん御覧になってみるとすべてが分かってくる。ね、
それは、この程度ですけれども足ろうておる。もう何かしら足ろうておる。お金もあるばってん、病人が絶えないね、お金はないけれども、おかげで健康だからという事じぁない。それこそ人間の幸の条件のすべてが足ろうてそれが形の上にも現れてくる。ね、本当にこれをいうなら、もう限りがない程ですね。合楽でこれも足ろうでおる、これも足ろうておる。こういう事が足ろうたおかげというのであろうかというように、なら、おかげをいうならば、皆さんに見てもらったり、聞いてもらったりしてからの、いうならば合楽の信心です。合楽理念です。 ですから、足ろうてゆく、足ろうた幸をそのままあの世にももっていけれるおかげを頂く為にね、やはり、いよいよもって神様の御守護の中にある一家、為にはね、いよいよ我情我欲を取りはずさせてもらう、改まらせて頂く修行、それも合楽理念をもってすればすぐでけるように説いてある。信心が成長していけば、自ずと分かってくる信心が説いてある。これはもう本当にそうです。もう何というですかね、実意丁寧神信心とは、こういうおかげが受けられるという実証をです、なさっていくという事が、いよいよ周辺にも広がり進められていかねばいけんと思うですね。
どうぞ。